「健全」発言について遅ればせながら考える

 柳沢厚労相の「健全」発言について、

 健全という言葉とその一見的外れにも見える反発について考える(suVeneのあれ)に触発されて考えてみました。


 確かに、論理的に考えれば「Aは健全である」という主張はそれ単独では「非Aは健全ではない」ということにはなりません。ただ、これはあくまでそれ単独ではという限定の下であって、この主張が出てきた文脈によっては「非Aは健全ではない」というという主張を含意している場合もあり得ます。それゆえ、柳沢厚労相の「健全」発言を評価する際にも発言の前後や文脈を検討する必要があります。
 まず、柳沢厚労相は「少子化対策は女性だけに求めるものか。」という記者の質問に対して、

若い人たちの雇用が安定すれば婚姻率が高まるという状況だから、安定した雇用の場を与えていかなくてはいけない。女性、あるいは一緒の所帯に住む世帯の家計が、子どもを持つことで厳しい条件になるから、それを軽減する経済的支援も必要だ。家庭を営み子どもを育てることに人生の喜びがあるという自己実現という範囲でとらえることが必要だ。

 と、少子化対策は政府や社会にも求められていることを主張した上で

ご当人の若い人たちというのは、結婚をしたい、子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる。

 という問題の発言をし、

だから本当にそういう日本の若者の健全な、何というか、希望というものにわれわれがフィットした政策を出していくということが非常に大事だというふうに思っている。

 このような「健全」な希望に対応した少子化対策をすることが重要だという認識を示しています。

 このような発言の文脈を見ると、当たり前のことですが発言は少子化対策という文脈の下でなされています。すなわち、厚労相の「二人以上」という区切りも人口減少を食い止めるためには出生率が2.08以上でなければならないことを前提としており、且つ少子化対策を取ろうとしている政府としてはそれ以上子供が生まれることを望んでいるということが前提となっていることに注意しなければなりません。
 もちろん、少子化対策の文脈でも「健全」の基準は別のものであるという可能性も存在しますが、少子化という文脈と無関係に「二人以上」「二人未満」という区切りを用いる根拠はちょっと考えつきません(少子化とは無関係に「二人以上」もそれ以外もそれぞれ健全な状態にあるということがいいたいのであれば「二人以上」という区切りを用いる意味がなくなります)。
 このような文脈を前提にすると、「子供を二人以上持ちたい」と「子供は一人だけでいい」「子供を持ちたくない」は決して並列の関係ではなく少子化対策という基準の上で、「子供を二人以上持ちたい」>「子供は一人だけでいい」>「子供を持ちたくない」という評価がなされているといえるでしょう。このことは「子供は一人だけでいい」「子供を持ちたくない」人に対するフォローが全くなされていないことからも発言の前に「家庭を営み子どもを育てることに人生の喜びがあるという自己実現という範囲でとらえることが必要だ。」と子供を持ちたくない人の存在が無視されていることからも窺えます。
 このような評価基準の下では、「健全」から漏れた人たちは相対的であれ絶対的にであれ「健全でない」と評価されざるを得ません。「健全」発言を擁護する人は発言だけでなくその文脈も考慮すべきだとしながら、このような文脈を無視しているのではないでしょうか。

「生む機械」発言は適格性のなさを証明している

 柳沢厚労相の「生む機械」発言が物議を醸しています。
 私は彼を罷免すべきだと思いますが、それは失言をしたからというよりは、失言によって彼の厚生労働大臣としての適格性のなさが明らかになったからです。
 子供を産むか否かは女性の自己決定権の問題であり、他人が押しつけがましくがんばれなどというべきではありません。少子化対策といっても、あくまでこういった女性の尊厳を前提としたものでなければならないのは当然のことです。ならば、政府が取るべき少子化対策とは、子供を産みたいと考えている女性が安心して子供を産むことができる環境を整えること、に尽きます。
 ところが現実には、賃金の低下、保育園不足、教育費の増大など、女性(および彼女と生計をともにする男性)が子供を安心して育てていける環境はどんどん破壊されているのが実情です。柳沢厚労相が推進していたWCEも、それによる残業代のカットや長時間労働の危険を払拭できず、ますます子供を産み育てていく環境を破壊していくものです。
 柳沢厚労相少子化を助長するような政策を進める一方で、女性に対して単にがんばれと主張しているわけで、少子化に取り組むべき厚生労働大臣の認識としてはお粗末すぎるのです。
 この程度の認識しか持たない大臣を、「改心」させまともな認識を持つように教育するぐらいなら、もっとまともな認識を持った人間を代わりに大臣にした方が手っ取り早いのです。

「伝統」のイデオロギー性4

 G.R.さんのエントリー 伝統のイデオロギー性 思想の対比 にたいするお返事です。

 青龍さまのお考えでは、あるイデオロギーが「伝統」をどう扱うか、という視点が見えてきません。
 具体的に言いますと、保守主義的視点は「伝統」(いちおうこういう呼び方で続けますが、あとで整理します)を保守し、劇的な改変をなるべくしないように考えると思います。
 一方改革を考えるイデオロギーでは、そういった「伝統」を非合理的なものとみなし、自らのイデオロギーが拠って立つ所の理性を用いて社会を運営しようと考えます。この点でこのイデオロギーは「伝統」を否定します。

 G.R.さんの言う保守主義も「伝統」を無条件に維持しようとするものではないでしょう。「劇的な改変をなるべくしないように考える」ということは裏を返せば、劇的でない改変を否定するものでもないし、劇的な改変であっても必要性があれば認めるということです。そこで問題になるのが、その必要性の基準です。保守主義者が「伝統」を改変しようとするときには、必ず「伝統」と改変後の状態を比較する基準が存在するはずです。その基準の集積がその者の持つ価値観と表現されるものといえます。このような観点からすれば、保守主義者もそのような価値観を基準として「伝統」を改変しているといえるし、「伝統」を維持するのも、その者の価値観の許容範囲内であるからということになります。
 では、「改革を考えるイデオロギー」というものはいったいどの様な基準で「伝統」を否定しているでしょうか?その基準こそがその者の持つ価値観でありそれを体系化したイデオロギーなのでしょう。そうすると、G.R.さんのいう保守主義者も改革を考えるイデオロギーを持つものも自らの依って立つ価値観を基準として「伝統」の取捨選択をしている点では何も変わらないのではないでしょうか。もちろん、一般的に保守主義者の持つ基準よりも改革派の基準の方が「伝統」を改変しやすいとはいえるでしょうが、それは質的な問題ではなく量的な問題にすぎません。
 しかるに、G.R.さんの主張によると両者は全く異質なものと扱われ、保守主義者の行う「伝統」の改変は非難の対象とならないのに対し、改革派の行う改変は傲慢だと否定提起な評価をされるわけです。このG.R.さんの評価はダブルスタンダードではないかというのが私の批判の中核です。

 ここで、「伝統」という言葉の確認ですが、私は、その社会が過去から営々と築き上げてきた社会の中で自然発生的に形成されてきた、社会を維持する知恵という意味で用います。これがバークの言う「法の支配」であり、「コモン・ロー」ということになろうかと思います。また、チェスタトンが言うところの「墓石にも投票権がある」ということでしょう。(この点でチェスタトンの言い回しは独特なので、多くの説明が必要かもしれませんが、今は示すにとどめます)


 「伝統」を「社会を維持する知恵」と定義するのであれば、それはまさに合理主義ではないですか。すなわち、この場合の「伝統」は、過去にその「伝統」に従うことによって社会が維持されてきたから現在においてもその「伝統」に従うことによって社会がよりよく維持できるだろうという推論がその正当性を支えることになります。
 しかし、この推論は過去と現在の間に状況の変化(社会環境やそれに伴う人の意識の変化)がある場合、適当だとはいえなくなります。この場合、保守主義者であれ改革派であれ、状況の変化にかかわらず「伝統」を維持することが妥当かをその者の価値基準に従って判断する点では何も変わらないことは前述しました。


 士農工商明治維新も歴史的ダイナミズムの「中」のことであり、保守主義イデオロギーも革命主義(社会主義)政治イデオロギーもそのことどもを「扱う」立場になると思います。

 具体的に言えば国旗国歌の成立も、明治政府が外国と比肩する為に国家としての日本に必要であるとして定めたものであり、考え方としてみればそれ以上のものでも以下でも有りません。ただ、それをイデオロギーとして扱う勢力があるというだけです。また、現在の日本国民の「多く」はそういう政治イデオロギーに与せず、自らの国の「象徴」として現在の国旗国歌を認めているという意味で、イデオロギー性は殆どないか、薄いと思います。

 ここでも「必要」という言葉が無自覚に使われていないでしょうか。この場合の「必要」とは一体いかなる基準に基づいた「必要」性なのかを問うことなく客観的な解があるように扱うことには問題があります。
 その意味で国旗国歌を成立させた当事者も、国民を統合し(この場合は創造といった方が適当かもしれませんが)国家の経済力軍事力を増大させていこうという価値観を有しており、その目的に従って行動していたのです。その意味でのイデオロギーを明治政府の政策担当者を有していたのであり(このことは自由民権運動と政府の対立を例に取ればわかりやすいでしょう、自由民権運動自由主義民主主義というイデオロギーに基づく国家像を提示していたと評価できるのであればそれと異なる国家像を持っていた明治政府の政策担当者もまた何らかのイデオロギーに基づいて政策を決定していたと評価しなければおかしいのです)、彼らとそれを評価する者を質的に異なるように扱うのは問題があります。

 また国旗国歌については前回述べたことの繰り返しになりますが、イデオロギー性を意識しないことはイデオロギー性がないことにはならないという点に尽きます。G.R.さんのレトリックは、国民の多くが初詣の宗教性を意識していなければ、初詣が宗教行為ではないことになるといっているのと同様に論理の飛躍があります。



 フランス革命で行われたことはアンシャン・レジームの破壊であったと思いますが、それは同時にその当時隆盛していた啓蒙主義に基づき、「理性により社会を創造し統治する」という理性主義が発生した契機でもあったと思えます。

 人の理性がその世代において社会を構築するという理性至上主義(中川八洋氏は理神教と呼んでいますが)が社会主義を胚胎させ、やがてソビエト連邦などの社会主義国家が形成されましたが、それらはすべて計画経済の名のもとに、理性により社会を維持しようとしました。これが大きな間違いであったということは歴史が証明したのではないかと思います。保守主義はその理性主義を否定する思想として生まれたという面があると思います。


 ここでも、理性に対する言いがかりに近い非難がなされていませんか。特にG.R.さんの定義する「伝統」がまさに合理主義の帰結であることを考え合わせれば、G.R.さんの理性批判はまさに自己撞着に陥っているといえます。
 また、理性至上主義(こんなものが本当に存在するのか疑問ですが)に社会主義の失敗の責を全面的に押し付けるのも論理の飛躍があります。この論法を使うのなら、「伝統」に執着した大日本帝国の失敗は一体何にその責任を押し付けるのですか?

 さて、ここでひとつ判らないので改めてお伺いしたいのですが、青龍さまはなぜ国旗国歌の「押し付け」という表現をなさるのでしょう。青龍さまの立場からのお考えが、いまひとつはっきりとわかりません。こちらの理解力不足という点もあるかと思うのですが、ぜひ根本的なお考えをお示しいただきたいと思います。

 理由はシンプルです。私は「人は生まれによる貴賤はなく、その人のなしたことだけがその人を評価する基準になる」という価値観を有しています。他方、天皇制は戦後の象徴天皇制も含めて、天皇家に生を受けたということだけを理由に他の国民と異なった取り扱いをしています。このような価値観は私の価値観と相容れないものですから、そのような制度を公的なものとして取り扱うことに反対です(当人が納得している分には私的なものとして取り扱うことには異論はありません)。従って、君が代という天皇の長寿を願う歌(君が代の「君」が天皇を表すというのは国旗国歌法制定時の政府の公式見解でした)を歌う気にもなりません。それは私の価値観に抵触するからです。
 まあ、私が君が代を歌わない理由はそんなところですが、私とは別の理由でその人の思想信条と抵触するから歌わない人もいるでしょう。このようにその人の思想信条と矛盾する行為を強制することを世間一般では「押し付け」るというのではないのでしょうか。
 私としては、G.R.さんがその理由を解らないと仰る点に深刻な危機感を抱かざるを得ません。

 なかなか難しいお話が続き、こちらも悪戦苦闘してエントリしております。自身の勉強不足の感は否めませんし、内容の不備な点お笑いになられているかとも思いますが、どうかご容赦を。

 こちらこそ、私の拙い主張に丁寧に対応していただき、恐縮しております。

「伝統」のイデオロギー性3

 G.Rさん、仕事が忙しくてお返事が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
 なお、このエントリーを読む前に前エントリーの(余談)の部分を御参照下さい。

 伝統をイデオロギーとしてしまうという点で間違っていると思いますし、そこからさまざまな齟齬が生まれてくると思います。以下、その点について考えます。

 まず、人は出自により「伝統」を選べません。ややこしい言い方ですが、人は生れ落ちたと同時にその社会の伝統の中に放り込まれます。後天的に、ある伝統と別の伝統を比較して「こちらの伝統を選択する」ということも「理性的には」可能でしょうが、その社会の中に生活する感覚として、または感性として生まれたときから組み込まれる伝統を選ぶことはできません。


 出自により選べないことを「伝統」というのであれば、ソ連のような共産主義国家における共産思想も戦前の大日本帝国における天皇崇拝も「伝統」と言うことになるでしょう。そこに生まれた人間は、そのような「伝統」が生活する感覚・感性に与える影響を排除できません。その結果、「伝統」の中で育った人の多くはそれに含まれるイデオロギー性に無自覚になりますが、無自覚であることは「伝統」にイデオロギー性がないことを意味しないことは既に指摘しました。
 そして、「伝統」はその時々で、社会の変化や価値観の変化に応じて、改変されていくものであり、その改変の際には「伝統」が有するイデオロギーと改変を要求するイデオロギーを比較・選択することになるのです。この点は、保守思想の内部での改革と、異なるイデオロギーに基づく改革で変わりないのです。しかるに、G.R.さんからすると、両者は異質なものと評価され、前者は肯定的に評価されるのに対して後者は否定的に評価されるのです。



 

その点を考え、保守思想は「国の成り立ちから現在に至るまで形成されてきたその社会のさまざまな知恵、慣習、階級、統治機構は自然発生的なもので、それは人智を超えた(<少し誤解されるかも)精妙なものであるから、浅薄な人間の理性・知性により作り変えられるものではない」という立場をとります。

 だとしたら、保守思想というものの前提自体が間違っていると言わなければならないでしょう。歴史を紐解いてみれば解りますが、士農工商のような階級制も、四民平等も到底自然発生的なものではなく、その時々の政治権力がその目的達成のために定めたものにすぎません。江戸幕府も明治政府も過去の統治機構を武力で倒すことによって成立したものです。国旗国歌についても、そもそもそんなものは明治以前の日本には存在していませんし、国旗を掲揚し国歌を歌うことが国民統合のの手段となり得るという考え方も、国民国家成立以前には存在していないのです。
 以上の例を見れば、これらが自然発生的なものであるというのは間違いであることははっきりしています。どれも、その時々の政治権力がその目的を達成するためにあなたの言う「浅薄な人間の理性・知性」により作り変え・または作り出したものなのです。
 もちろん、社会に存在する価値観の中には自然発生的に形成されていったものが存在すること自体は否定しません。しかし、あなたの言う保守思想は人為的なものまでしかも選択的に「伝統」の中に放り込んでいる点で問題があると思います。

 

 

ただし、保守思想が絶対にイデオロギーでないかというと、それも違います。上記立場を踏まえ、その立場を崩そうとする考え方へのカウンター・イデオロギーとして成り立ちえます。しかしそれはその国の保守的に伝統を重んじる生活をしている人々すべてが持つものとしてのイデオロギーというところまで考え方を広げるのは誤りです。


 いいえ、誤りではありません。
 あなたのいう「保守的に伝統を重んじる生活をしている人々」も、「伝統」の全てを肯定し何も変えるべきではないと考えているわけではなく、その時々で不都合と考えられる「伝統」を改変・破棄しています。だからこそ、社会は漸進的に変化してきているのです。そして、その改変・破棄の際に「伝統」と変更後の新しいあり方を比較し、どちらが望ましいかを図る基準を全ての人が持っているのです(そうでなければ、人はどちらが望ましいのかを判定することはできないでしょう)。この基準の内、改変・破棄を望ましいものとする基準の一つがリベラリズムという価値観である以上、「伝統」を維持すべきと考える基準もまた一つの価値観です。


 

後者の「伝統」はあいまいであり、誤りです。正確には「思想」です。そしてイデオロギーです。

 ここが、G.R.さんの主張の一番の問題点です。民主主義・自由主義の「伝統」を否定しつつ、国家への愛着は「伝統」に含めています。しかし、どちらも、近代国家の成立以前には存在しない人為的なものという点では違いはないのです。このように、G.R.さんは自分の主張に都合のいいものを選択的に「伝統」だと主張しているだけであり、この選択には何ら説得力はありません。


 国旗・国歌にしても、国歌が特定の価値・歴史を有する者である以上、それを象徴する国旗・国歌が「価値中立」であることはできません。君が代の場合でもその内容から既に特定の価値に基づいていることはあきらかです。これを「価値中立」とするというのは、その価値に無自覚になることか、価値を自覚しながら他者に押しつける方便として中立と扱うことでしかありません。
 国旗・国歌が自由主義と並立可能なのは、あくまで強制がなされない場合であって、強制しつつ「価値中立」だから問題ないというのは自らの価値観を「中立」と信じることができる幸せな人の妄想にすぎません。

「伝統」のイデオロギー性2

 GraveyardRunnerさんの国歌は価値中立たりえるか?に対するお返事です。

 さて、この国歌は、フランス革命賛歌です。この国歌を法律で制定し続けているフランス共和国は、今も革命の嵐が吹き荒れているでしょうか。

 いいえ。見てきたとおり、民主的な政治が行われ、現在は保守系政党が過半数という状況です。

 しかし、その極端な革命イデオロギーメッセージを含むにもかかわらず国歌として行事で演奏され続けている現実があり、それはフランスの象徴として自国・他国に機能しています。

 この一例をとってみても、国歌は「国民を統べる象徴」として機能する一方、その内容のイデオロギー性を問われているわけではありません。


 まず、フランス革命当時も現在もフランスが自由・平等・博愛を基本理念として掲げている点は変わりありません。同じ理念を持つ政体の創業期の混乱と現在の安定を異質の理念を持っているように扱うのは不適当だと思います。これに対し、大日本国憲法日本国憲法ではその根本理念が異なります。このように国家の理念が根本から変わった場合、国歌が変更されるのは何もおかしくありません(一例としてドイツではメロディーは変わっていませんが、ナチスドイツが1番のみを国歌としているのに対して、現在のドイツは3番のみを国歌にしています)。
 次に、象徴として現実に機能していることとその象徴がイデオロギー性を持つことは矛盾するものではありません。多数者がそのイデオロギー性を意識しないことはイデオロギー性が無くなることを意味しないのです。


 今現在の日本が天皇を主体とする国家を形作っているのなら、君が代天皇のための歌ですが、現実はそうではありません。ですから、君が代を国歌と認めないという「考え」がそのまま国家に対する反逆になることはありえないのではないでしょうか。ですから青龍さんのお考えを誰も罰することはないし、考えを異にする自分とも共存可能なのではないでしょうか。

 問題は(過去にたくさん議論されているように)君が代を国家の象徴として儀礼的に歌うのが「ふさわしい」とされる公立学校でその斉唱に反対する行為です(これはあくまでも象徴としての国歌を歌うべき場ということです)。このイデオロギー的行為は、必要とされる儀礼の中で、あえて反対することで「わざわざ価値中立性を歪めている」行為であると思えるのです。つまり、もともと「国家として国民として」の象徴としての意味しかなかったものにイデオロギーを持ち込んだのは、どちらなのか、という批判です。(日本共産党でさえ、国旗・国歌を消極的にではありますが認めていることや国旗国歌を規定する法律が存在するのはとりあえずおいておきますが。)


 この論理は、戦前の大日本帝国神道を宗教ではなく国民が守るべき礼儀とした「神道非宗教論」と変わりません。内心だけの自由が認められても、内心と異なる行為を強制することを認めるのであれば、内心の自由の保障は画餅に帰すだけです。
 また、現在の日本が国民主権だから「天皇」も「君が代」も価値中立的だというのは、論理としては成り立ちません。今の日本国が国民主権の国家であるなら、なぜ象徴として「天皇」を選択するのか。そこには「伝統」という価値判断が存在しているのではないですか?保守主義や伝統主義を掲げる人々に共通しているのは、「伝統」というものを選択すること自体も一つの価値判断であり、イデオロギー性を持っているという当たり前の認識が欠けていることです。それゆえ、イデオロギーを持っているのは「伝統」という自分たちの選択に反対する人たちだけだという一方的な論理になるのではないかと思うのです。
 人間の歴史を見れば、変化のない社会が存在しない以上、その時代ごとで、過去の「伝統」と呼ばれるものの一部を変更し・排除してきたのです。そしてその変更排除は必ずしも全員の合意の下で漸進的に行われてきた訳ではなく、その時代ごとに多数派によって選択されてきたものです。その意味でフランスにおいても王政と教会の権力というアンシャンレジームの下での「伝統」を否定した、自由・平等・博愛の「伝統」というものも存在するのです。


 象徴としての天皇は、封建の権力を現在は持ちえていません。しかし、左翼系といわれるマスコミでさえ、たとえば靖国問題においては天皇の発言というものを政治的に利用しました。天皇はそのような権限を行使出来得る立場ではありえないにもかかわらず、です。

 これらは、すべて「イデオロギーを持つ側」が「象徴を利用する」行為です。そしてその利用によって損なわれるのは「法による統治」という理念そのものなのではないでしょうか。


 私は、靖国問題についても天皇の発言を政治的に利用したことはありませんし、天皇は国政に関与すべきでないので利用は不適当だと考えています。ただ、日頃天皇を特別視する人たちに対してにもかかわらず都合の悪い発言だけを無視するのは矛盾しているのではないかと皮肉ったことはありますが。
 しかし、天皇の発言を政治的に利用することと、君が代を歌わないことを同列に扱うのは論理としては乱暴すぎます。

 G.R.さんは「国旗・国歌」に限定されていますが、どの部分をたどっても保守の無自覚という問題につながってしまいます。



(余談) 私はイデオロギーという言葉を使っていますが、これは価値観や考えと置き換えても問題はありません。例えば日本国憲法19条は「思想及び良心の自由」を保障していますが、ここでいう「思想」は英訳では「thought」となっています。つまりここで保障されているのは自由主義や民主主義といった大層なものだけでなく、人々が普通に持っている物事の見方や価値観も含んでいるということです。その意味で誰も思想と良心を持っているし、もし持っていないという人がいるのであれば、それは「私は何も考えとらんアホですわ」といっているのと変わらないのです。

「伝統」のイデオロギー性

 偏見と理性と感性(straymind underground)でのコメント欄の続きです。

 確かに皇国主義の旗頭として使われていた時代がありましたし、それは(国民を軍事に走らせたという意味で)間違っていると思います。しかし、だからといって天皇・日の丸・君が代を切り捨てるのは疑問です。

 私が天皇君が代に反対する主要な理由が、特定の血統の人間をその血統ゆえに特別扱いすることが「平等」の理念に反するからであることは前述したとおりです。
 他の人が天皇を敬慕することは自由ですし、それを批判するつもりは全くありません。しかし、同様に、他の人も私が天皇を敬慕しないことに干渉すべきではないのです。

 今現在この国で暮らしている国民のうち「相当数の人々」の意見を反映しつつ、違いを吸収し、また、異なる考えを保護するという制度の下でなら、現行の「国旗・国歌」をみとめるのが自然の流れです。

 「国旗・国歌」について、異なる考えは保護されているでしょうか?君が代を歌わなかったから処分されるような現状では到底保護されていないと私は思います。G.R.さんはどの様な状態を以て「異なる考えを保護するという制度の下」にあると考えられているのでしょうか。

 もともと歴史を有するこの国の「国民」が過去の遺制伝統を継承しつつ、誤りは誤りとして「改善する」という方向で考えるのが保守的思想であるとするなら、私はそれを支持しているものです。そして、国民一人ひとりの生活基盤となる慣習の継承や国家・天皇に対する崇敬の念の継承は遺制継承の具体的なものですが、それを象徴するのに今の国旗・国歌であってもなんら不都合はないと思えます。

 G.R.さんは愛着とは不合理なものであると規定されています。しかし、同様に愛着を持たないことも不合理であり、愛着を持つか持たないかの間に優劣をつけることはできません。それ故、愛着というものを他者に押しつけるべきではないというのが私の考えです。G.R.さんと異なり私は天皇に対する崇敬の念を持っていません。また、「国」に対する崇敬の念も日本国憲法が国民の権利を守ろうという崇高な理念を歌い上げているからであって、この理由はG.R.さんが「国」に対して崇敬の念を持つ理由とはだいぶ異なると思います。しかし、このような価値観の違いにもかかわらず、私もG.R.さんもお互いを同胞として同じ国家を運営していこうということに何ら支障はないのです。
 このような合意に達することができるのであれば、「愛国心」とは天皇・国旗・国歌を経由しなくても発現しうるものだというのが私の考えです。
 ここで、G.R.さんに確認しておきたいのですが、このような私の「愛国心」、すなわち、天皇君が代に崇敬の念を抱かないが、日本の歴史と文化に愛着を持ち、同胞とともにこの国家を運営していこうという考えはG.R.さんからは「気ちがい」の「愛国心」となってしまうのでしょうか?

 仰るように「愛国心のありよう」は人それぞれです。それも認めます。しかし、それが「私の愛国心はこれである」というふうに個人が思考し作り出すものまですべて受け入れるなら、「気ちがい(チェスタトンの表現)」の「愛国心」も受け入れられるでしょうか。私が言う「ある方向」は、過去を継承し、国を維持し、その上で未来を確保するということを前提にしていますから、過去を否定し、国を維持しようとせず、そのうえであるべき未来を否定する「愛国心」があるなら、断固反対する、というものです。

 確かに、個々人が愛国心と考えるもの全てが他の人からも「愛国心」と捉えることができない、ということは事実でしょう。しかし、それはG.R.さんの許容する「愛国心」の基準が妥当であることではありません。
 G.R.さんの①過去を継承し、②国を維持し、③その上で未来を確保するということを前提という基準はいくつもの意味で恣意的なものだと思います。
 まず、①過去の継承という点では、「伝統」というものがその時々の多数派によって過去の一部を切り捨てて形成されてきた、という視点が欠けています。保守であれ革新であれ過去を全否定するものは凡そ存在しません。G.R.さんから過去を否定しているように見える価値観も「伝統」と評価される価値観がそれまで過去の一部を切り捨ててきたことと同じことをしているにすぎません。同じことをしている「伝統」と現在の価値観の価値観について後者だけを「過去を否定」するものだと評価するのは基準として恣意的ではないでしょうか。
 次に、②国の維持についても、何を以て「国」と考えるかで結論はかなり変わってきます。特に、①過去の継承を「国」の内容として読み込むとき、それはG.R.さんが好ましいと思う「過去」の肯定を愛国心の条件とすることと変わりなくなってしまうでしょう。これは③未来の確保についても同様です。

 「愛着を持てるような国家」というのは、「国」が作り上げるものではなく、祖先が暮らし、自分たちが暮らし、いずれ次の世代が暮らせるであろう「祖国」を愛する私たちが具現化し、維持していくものなのではないでしょうか。

 これについては同意します。だからこそ私も「そして自分たちがそのような社会と作り上げていく過程こそが「愛国心」の本質だというのが私の考えです。」と書いているのです。

 ある一部教師の振る舞いから裁判となった事件などを見るにつけ、あの教師たちはおろかだと思います。ああいう行為は国民感情の保守化を助長するというよりも、偏狭な皇国主義者を喜ばせるだけです。ああいう行為はそれを生み出す思想を排除し右傾化させる絶好の口実を与えているのです。

 それを気づかずに子供を楯に取り自己のイデオロギーのみを振りかざすのは「自分の頭の中で世界を形作っている」幼児の傲慢さです。

 子供を盾に自己のイデオロギーを振りかざしているというのは、自民党や東京都教育委員会にこそ当てはまることではないですか?
 君が代の斉唱を拒否した教師は、生徒に歌うなと指導したわけでもありません。単に卒業式の場で自らの信条と異なる行為を拒否しただけです。この行為のどの部分が「生徒を盾に取り」と評価できるのでしょうか。逆に東京都教育委員会はこの教師に対して「卒業式」という場を利用して君が代の斉唱を強制しています。更に生徒に対しても、生徒たちが君が代を斉唱しないことを教師の指導義務違反と捉えることによって教師の処分を盾に生徒に君が代を歌わせようとしています。これらの事実を見る限り教師が斉唱しないことを「生徒を盾に取っている」と評価しながら、教育委員会の行為について
問題にしないことはかなり恣意的な評価だと思います。
 また、イデオロギーの押しつけという点については、君が代を斉唱させようとする側もまた「イデオロギー」に基づいているという重要な点が忘れられています。G.R.さんに限らず「伝統」を強調される方々は「伝統」も一つのイデオロギーだという当たり前の認識が抜け落ちていることが多いです。特に、「愛国心」というものが愛着という不合理なものであるならば、不合理な価値観を少数者に押しつける点で少数者の思想良心の自由を侵害するものであり、現憲法下では許されない行為といえるでしょう。

 私が考えるに、教育基本法改正の良いところは教育体制維持のための義務を地方や家庭にまで要求している点であると思います。これは逆に言うと地方や家庭に「教育にかかわる権限」を委譲していくと考えられるものです。

 これは認識が甘いように思います。現に伊吹文部大臣は地方自治体の首長が決めた教育内容が政府の方針と異なる場合、「不当な支配」に当たると答弁しています。
 また、家庭に教育のための義務を負わせることは家庭教育の内容に国が立ち入らないことを意味しません。改正教育基本法を根拠にあるべき家庭教育に国が関与していく危険は十分あります。

 ですから、国家理念を支えるべく国旗・国歌を制定しできうる限り価値中立なものにさせる努力をし、教育基本法の理念をできる限り国民の手にゆだねるべきです。そしてそのゆだねられる国民は過去の歴史を尊重し、それを維持し、改善していくことでより良い未来を次世代に渡すという意味で、保守的であるほうが良いと思います。

 国旗・国歌を価値中立なものにするとはどの様な施策を指すのでしょうか。君が代天皇の世が続くことを歌い上げるものであり価値中立的なものではない以上、国歌を別の歌に変更するのでもなければ価値中立なものにすることはできません。君が代を国歌としたままで価値中立なものにするのはそもそも不可能だと私は思います。この施策が、君が代を価値中立的なものと見なすということであればまさに「保守」にありがちな自らのイデオロギー性の無自覚といえるのではないでしょうか。

 長々と書きましたが、私がG.R.さんの意見に賛同できない理由は、G.R.さんが自らのイデオロギー性を自覚されていない点にあります。
 前述したようにG.R.さんの言う「保守」もG.R.さんが否定される「気違いの愛国心」も「過去の一部」を変更せず「過去の一部」を変更するという点は何ら変わりません。しかし、G.R.さんから見ると一方は過去の「維持・改善」であるのに他方は過去の「否定」というように対照的な評価になってしまっています。このような恣意性が根底にあるからこそ、君が代の斉唱を法律によって強制しようとする側が正常であり、君が代を歌わない人間の方が「不寛容」という評価になってしまうのだと思いますし、その下で許容される「愛国心」の多様性も孟子の「性善説」的な論理構造になってしまうのです。

「洗脳」?その根拠は?

 北星学園女子中高の中学3年生が教育基本法改正に反対する意見書を安倍晋三首相に送った件について
 【News】左派教師による洗脳成果を発表。北星女子中3生ら。 

偏りのない情報を得た結果の結論であれば良いんですが、どうもそうは思えないので。

 そう思えない根拠が、担任教師が共産党系の人間で政治活動に参加していた、という記事らしいのですが、これだけの根拠で、「洗脳」だと主張するのはあまりにも乱暴な決めつけです。
 この件についての報道で明らかになっている事実は
 ①担任教師が共産党系の人間であり
 ②社会科の授業で教育勅語について勉強したこと
 ③生徒が安倍晋三首相に対して、教育基本法の改正に反対する意見書を送ったこと

 です。
 まず、担任教師が共産党系でも、それは彼女が偏った授業をしたという根拠にはなりませんし(そもそも何を以て偏ったと評価するのかも不明です)、まして彼女が「洗脳」と評価されるような授業を行ったと決めつける理由にはなりません。
 そして、彼女の授業を受けた生徒が教育基本法の改正に反対する意見書を送ったという事実からも、それが洗脳や偏った授業に起因するものであると決めつけることはできません。この件で明らかになっている事実から生徒の意見書の提出を教師の洗脳の結果だと判断することには明らかに無理があります。仲間内の議論で甘やかされていると、このような論理の飛躍も気にならなくなってしまうのでしょうか。