「伝統」のイデオロギー性3

 G.Rさん、仕事が忙しくてお返事が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
 なお、このエントリーを読む前に前エントリーの(余談)の部分を御参照下さい。

 伝統をイデオロギーとしてしまうという点で間違っていると思いますし、そこからさまざまな齟齬が生まれてくると思います。以下、その点について考えます。

 まず、人は出自により「伝統」を選べません。ややこしい言い方ですが、人は生れ落ちたと同時にその社会の伝統の中に放り込まれます。後天的に、ある伝統と別の伝統を比較して「こちらの伝統を選択する」ということも「理性的には」可能でしょうが、その社会の中に生活する感覚として、または感性として生まれたときから組み込まれる伝統を選ぶことはできません。


 出自により選べないことを「伝統」というのであれば、ソ連のような共産主義国家における共産思想も戦前の大日本帝国における天皇崇拝も「伝統」と言うことになるでしょう。そこに生まれた人間は、そのような「伝統」が生活する感覚・感性に与える影響を排除できません。その結果、「伝統」の中で育った人の多くはそれに含まれるイデオロギー性に無自覚になりますが、無自覚であることは「伝統」にイデオロギー性がないことを意味しないことは既に指摘しました。
 そして、「伝統」はその時々で、社会の変化や価値観の変化に応じて、改変されていくものであり、その改変の際には「伝統」が有するイデオロギーと改変を要求するイデオロギーを比較・選択することになるのです。この点は、保守思想の内部での改革と、異なるイデオロギーに基づく改革で変わりないのです。しかるに、G.R.さんからすると、両者は異質なものと評価され、前者は肯定的に評価されるのに対して後者は否定的に評価されるのです。



 

その点を考え、保守思想は「国の成り立ちから現在に至るまで形成されてきたその社会のさまざまな知恵、慣習、階級、統治機構は自然発生的なもので、それは人智を超えた(<少し誤解されるかも)精妙なものであるから、浅薄な人間の理性・知性により作り変えられるものではない」という立場をとります。

 だとしたら、保守思想というものの前提自体が間違っていると言わなければならないでしょう。歴史を紐解いてみれば解りますが、士農工商のような階級制も、四民平等も到底自然発生的なものではなく、その時々の政治権力がその目的達成のために定めたものにすぎません。江戸幕府も明治政府も過去の統治機構を武力で倒すことによって成立したものです。国旗国歌についても、そもそもそんなものは明治以前の日本には存在していませんし、国旗を掲揚し国歌を歌うことが国民統合のの手段となり得るという考え方も、国民国家成立以前には存在していないのです。
 以上の例を見れば、これらが自然発生的なものであるというのは間違いであることははっきりしています。どれも、その時々の政治権力がその目的を達成するためにあなたの言う「浅薄な人間の理性・知性」により作り変え・または作り出したものなのです。
 もちろん、社会に存在する価値観の中には自然発生的に形成されていったものが存在すること自体は否定しません。しかし、あなたの言う保守思想は人為的なものまでしかも選択的に「伝統」の中に放り込んでいる点で問題があると思います。

 

 

ただし、保守思想が絶対にイデオロギーでないかというと、それも違います。上記立場を踏まえ、その立場を崩そうとする考え方へのカウンター・イデオロギーとして成り立ちえます。しかしそれはその国の保守的に伝統を重んじる生活をしている人々すべてが持つものとしてのイデオロギーというところまで考え方を広げるのは誤りです。


 いいえ、誤りではありません。
 あなたのいう「保守的に伝統を重んじる生活をしている人々」も、「伝統」の全てを肯定し何も変えるべきではないと考えているわけではなく、その時々で不都合と考えられる「伝統」を改変・破棄しています。だからこそ、社会は漸進的に変化してきているのです。そして、その改変・破棄の際に「伝統」と変更後の新しいあり方を比較し、どちらが望ましいかを図る基準を全ての人が持っているのです(そうでなければ、人はどちらが望ましいのかを判定することはできないでしょう)。この基準の内、改変・破棄を望ましいものとする基準の一つがリベラリズムという価値観である以上、「伝統」を維持すべきと考える基準もまた一つの価値観です。


 

後者の「伝統」はあいまいであり、誤りです。正確には「思想」です。そしてイデオロギーです。

 ここが、G.R.さんの主張の一番の問題点です。民主主義・自由主義の「伝統」を否定しつつ、国家への愛着は「伝統」に含めています。しかし、どちらも、近代国家の成立以前には存在しない人為的なものという点では違いはないのです。このように、G.R.さんは自分の主張に都合のいいものを選択的に「伝統」だと主張しているだけであり、この選択には何ら説得力はありません。


 国旗・国歌にしても、国歌が特定の価値・歴史を有する者である以上、それを象徴する国旗・国歌が「価値中立」であることはできません。君が代の場合でもその内容から既に特定の価値に基づいていることはあきらかです。これを「価値中立」とするというのは、その価値に無自覚になることか、価値を自覚しながら他者に押しつける方便として中立と扱うことでしかありません。
 国旗・国歌が自由主義と並立可能なのは、あくまで強制がなされない場合であって、強制しつつ「価値中立」だから問題ないというのは自らの価値観を「中立」と信じることができる幸せな人の妄想にすぎません。