「健全」発言について遅ればせながら考える

 柳沢厚労相の「健全」発言について、

 健全という言葉とその一見的外れにも見える反発について考える(suVeneのあれ)に触発されて考えてみました。


 確かに、論理的に考えれば「Aは健全である」という主張はそれ単独では「非Aは健全ではない」ということにはなりません。ただ、これはあくまでそれ単独ではという限定の下であって、この主張が出てきた文脈によっては「非Aは健全ではない」というという主張を含意している場合もあり得ます。それゆえ、柳沢厚労相の「健全」発言を評価する際にも発言の前後や文脈を検討する必要があります。
 まず、柳沢厚労相は「少子化対策は女性だけに求めるものか。」という記者の質問に対して、

若い人たちの雇用が安定すれば婚姻率が高まるという状況だから、安定した雇用の場を与えていかなくてはいけない。女性、あるいは一緒の所帯に住む世帯の家計が、子どもを持つことで厳しい条件になるから、それを軽減する経済的支援も必要だ。家庭を営み子どもを育てることに人生の喜びがあるという自己実現という範囲でとらえることが必要だ。

 と、少子化対策は政府や社会にも求められていることを主張した上で

ご当人の若い人たちというのは、結婚をしたい、子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる。

 という問題の発言をし、

だから本当にそういう日本の若者の健全な、何というか、希望というものにわれわれがフィットした政策を出していくということが非常に大事だというふうに思っている。

 このような「健全」な希望に対応した少子化対策をすることが重要だという認識を示しています。

 このような発言の文脈を見ると、当たり前のことですが発言は少子化対策という文脈の下でなされています。すなわち、厚労相の「二人以上」という区切りも人口減少を食い止めるためには出生率が2.08以上でなければならないことを前提としており、且つ少子化対策を取ろうとしている政府としてはそれ以上子供が生まれることを望んでいるということが前提となっていることに注意しなければなりません。
 もちろん、少子化対策の文脈でも「健全」の基準は別のものであるという可能性も存在しますが、少子化という文脈と無関係に「二人以上」「二人未満」という区切りを用いる根拠はちょっと考えつきません(少子化とは無関係に「二人以上」もそれ以外もそれぞれ健全な状態にあるということがいいたいのであれば「二人以上」という区切りを用いる意味がなくなります)。
 このような文脈を前提にすると、「子供を二人以上持ちたい」と「子供は一人だけでいい」「子供を持ちたくない」は決して並列の関係ではなく少子化対策という基準の上で、「子供を二人以上持ちたい」>「子供は一人だけでいい」>「子供を持ちたくない」という評価がなされているといえるでしょう。このことは「子供は一人だけでいい」「子供を持ちたくない」人に対するフォローが全くなされていないことからも発言の前に「家庭を営み子どもを育てることに人生の喜びがあるという自己実現という範囲でとらえることが必要だ。」と子供を持ちたくない人の存在が無視されていることからも窺えます。
 このような評価基準の下では、「健全」から漏れた人たちは相対的であれ絶対的にであれ「健全でない」と評価されざるを得ません。「健全」発言を擁護する人は発言だけでなくその文脈も考慮すべきだとしながら、このような文脈を無視しているのではないでしょうか。