コメント欄への返答1

 前の「在留特別許可について」という記事に権兵衛さんがコメントされました。かなり長文となったので新たな記事を起こします。

 貴方は、しっかり勉強しているようなので、こちらに書くのがふさわしいのでしょう。長文かつ駄文を先にお詫びしておきます。

 まず確認しておきたいのですが、あなたは玄倉川さんのBlogでコメントされていた方ということでよろしいでしょうか?

 先ず、取消訴訟については、在留許可の取消処分の取消訴訟ですから、訴訟では、22条の4第1項各号に掲げる取消事由が存在するかどうかを争うことになります。
つまり原告敗訴判決は、処分の取消事由が存在しないことを確認するものであって、処分が権限の濫用・逸脱によってなされたものかどうかを判断するわけではありません。この部分の立論は完全な誤解です。


 なるほど、確かに今回の事案では姉妹の両親は、自らが残留孤児の子孫にあたるか否かを争っていたと思いますから、この訴訟の主な争点が取消事由の有無になっていたということは理解できます。理論的には、取消事由に該当する場合になお在留許可の取消処分が裁量の逸脱濫用に当たることも考えられなくはないが、実際上は問題とならないという理解でよろしいですか?取消訴訟の判決文が手に入らないため推測に頼らざるを得ません。もし判決文の所在をご存じでしたら是非ともご教授下さい。
 ただ、このような理解によったとしても、裁判所の判断が取消事由の有無についてなされたものであれば、裁判所の判断を前提にして、なお国が在留資格を取り消さないという判断をしたとしても、それは裁判所の判断には抵触しないと思うのですが(あくまで22条の4は「できる」とするに留まっており、国に取消を義務付けているわけではありませんから)、その点はいかがでしょうか。

 従前のガイドラインの基準でも大丈夫という主張のようですが、従前のガイドラインであっても、最高裁までいって処分が確定したケースで在留許可を認めた例は、カルデロン典子さんのケースだけのはずです。それ以外は、最高裁の判断を、尊重する形で、退去強制を実行していると思います。それだけに今回のケースはレアなケース、方針転換を図った、と「も」いえます。

 私はこの理解は妥当ではないと思います。今回の事案やカルデロン紀子さんのケースがレアケースであるのは、最高裁の判断を尊重したからというよりは、単に退去処分又は在留資格の取消処分を求めた国がその方針を変えなかっただけではないでしょうか。国が在留資格の取消処分をする場合、単に在留資格がないことを確定させることを目的とするのではなく、その後の退去強制につなげる意思まで有していると考えるのが普通です(取り消した上で在留特別許可を与えるつもりであれば、入管法の構造上取消訴訟よりも先に決着がついているはずですから)。従って、在留資格の取消を求めた国にとって、最高裁により取消訴訟の棄却が確定したのであれば、退去強制につなげようとすることは当初の意図に従ったごく自然なことであり、それを国は在留資格の取消処分の撤回若しくは在留特別許可を出すつもりであったが、最高裁の判断を尊重してしなかったのだとする理解はかなり不自然なものであるように思います。
 最高裁の判決確定後に退去強制を実行しないことがレアケースであった理由は以上のように単に国が当初の意思を貫徹したからに過ぎないと考えれば、長期間にわたって政権交代が生じなかった日本において、このような事例がレアケースであり続けたのはごく当たり前のことです。このように考えれば、千葉法相が在留特別許可を出したことがレアケースであることは、それ自体裁量の逸脱・濫用とする根拠にはならないと考えます。

 そして、ご承知のようにガイドラインが挙げている積極事由・消極事由がかなり抽象的な文言と例示にとどまっている以上、その具体的な解釈は判断者ごとに幅が出てくるのは避けられないことであり、千葉法相の判断がガイドラインの文言から導き出せないようなものであれば格別、判断者の交代による解釈の変遷はそれ自体裁量の逸脱・濫用とする根拠とはなり得ないと思います(その意味で千葉法相の判断が方針変換を図ったものか否かは論ずる実益がないというべきでしょう)。

 そして、情報が少ない現状で今回のケース自体が適切かどうかを判断する気がない(ブログ主には失礼です、それは単なる推測に過ぎず、マスコミ情報だけで勝手に有罪無罪を判断するのと変わりがないですからそれ自体無価値(自己満足)だと個人的に思う)ので、三権分立に反するのかを具体的に述べません(主張としては十分成り立ちうるし反論も十分主張しうる)が、ただ、政権交代だから、裁量の中身を替えてよいという主張には違和感(というか反感)を覚えます。

 この点については誤解があると思います。私は、政権交代により裁量の中身が変わったからといって、その変わったことのみを以て裁量の逸脱・濫用の根拠とすることはおかしいと主張しているに過ぎません。千葉法相の判断が裁量の逸脱・濫用に当たると主張されるのであれば、もっと別の根拠を持ってくるべきなのです。

 今までの行政法学の流れの中では、裁量統制を論じるのは、法的安定性を確保して、人権保障を全うするためです。大臣交代の度に裁量の行使基準が変更することを是認するというのは、処分の対象者の法的地位を不安定にして、処分の法的安定性が破壊されます。そういうことがないようにするための、裁量統制論なのであって、広汎な裁量を是認しない流れの中で、それを是認する人々は、議論をまるで理解していないとしか思えません。

 たぶんこのあたりが権兵衛さんと私の最大の対立点であると思います。
 確かに権兵衛さんの仰るように、一般論として裁量統制の必要があることは否定できないでしょう。しかし、他方で裁量統制を過度に重視すると、そもそも法務大臣に裁量を認めた趣旨を没却してしまうのではないでしょうか?
 在留特別許可の制度趣旨は複数あると思いますが、その一つに通常の定型的な退去強制事由に該当するがなお人道上日本への滞在を認めることが人道上望ましいと言える場合にその者の救済を図ることが挙げられると思います(ガイドラインの文言もそのような趣旨を前提としているといえます)。このように在留特別許可自体が定型的な処理による不都合性を回避するための制度である以上、その判断に一定の裁量を認める必要があります。もちろん裁量権統制のために、裁量の行使基準を設定することは、少なくともこのような事例においては救済されるべきという範囲を明らかにする点で意義があると思います。しかし、これが一旦設定した行使基準に該当しない場合には救済すべきでないという主張に発展することは問題であると考えます。
 何故かというと、特別在留許可を出すべきか否かは一つの基準に該当するか否かによって決せられる場合だけでなく(この部分は基準として明確化しておく必要があるという点には異論はありません)、複数の要素の総合考量により決せられる場合があるからです。後者の場合、考慮の対象となる要素も定型的なものばかりではなく、またそれを判断の際にどの程度重視するかを一義的に決定することが困難であるため、その範囲で一定の裁量を認める必要があります。これを認めず、一義的な基準を要求する場合、それは定型化することが困難な事情(特に不利な事情)の存在を想定して、その場合でもなお在留特別許可を認めるのが妥当な場合を想定する必要が生じ、その結果在留特別許可を出すべき場合として明確化される範囲は現在法務大臣の裁量が肯定される範囲よりもかなり縮減せざるを得ません。これでは法的安定性を重視するあまりかえって具体的な妥当性を犠牲にすることにつながり、定型的な判断から漏れた場合に人道上の配慮により在留を認めるという在留特別許可の制度趣旨を没却してしまいます。
 

 例えば、この次政権交代をして、基準が前の自民党政権よりも厳しくなった場合、今回のケースを是認していた人々は、厳しくなった基準を裁量だかといって是認できるのでしょうか?私はそれならば、批判をするつもりはありませんが、今後人権とか憲法という言葉を口にしてもらいたくはないです。私はこのケースでは、確実に平等原則違反が生じていると思います。

 この平等原則違反の主張についてもやはり本末転倒な感を否めません。
 権兵衛さんの主張によると、法的安定性を重視し、平等原則を守るために、本当であれば人道上在留を認めるべき場合であっても、在留を認めるなということになりかねないことを自覚されているでしょうか。今回在留許可を出すのであれば過去に退去命令が確定した者に対しても同様の基準で許可を出すべきであるという主張であれば解りますが、ここで平等原則に則って、本件姉妹に在留特別許可を与えなかったとしても、それは過去の法務大臣の判断によって許可が与えられず強制退去になった者の人権の保護には何らつながりません。
 私が厳しくなった基準を批判する場合、その理由はあくまで新基準によると人道上、及び憲法の趣旨から保護する場合であるにもかかわらず許可がなされないことであって、政権交代により基準が変わったことそれ自体ではありません。今回千葉法相の判断を擁護するのもその判断が具体的な事案において人道上の配慮という在留特別許可制度の趣旨に適うからであって、政権交代があったから判断基準をいかに変えても問題がないなどという理由で擁護しているわけではないことをご理解下さい。

 他にも、基準の定立は、基本的には、立法行為ですから、本来的には立法作業の中で解決すべきだと思っています。入管法22条の4はある程度の不許可要件を定めているのを裏返しにして、50条の要件自体を法定することは可能といえます。

 前述したように、許可される場合のうち定型化される範囲において基準を明確化することに異論はありません。ただ、50条が非定型的な総合判断を必要とする以上、在留許可制度における法務大臣の裁量を明文の規定に完全に解消することはできないと思います。



 50条の要件を法定することにはメリットもあります。行政事件訴訟法で義務づけ訴訟が存在するので、50条の要件を備えることを訴えて、裁判所に義務付けの判断をしてもらえることです。

今現在の50条の広汎な裁量というのは、本当に広汎すぎて、義務付けが出来ませんから、多少の要件は必要になりますが、義務づけの対象にもできるように変更したほうが良いでしょう。

この場合、三権分立に疑義が生じることはなくなるでしょうから、理論的にも実際的にもきちんとした解決が出来ます。


 法定する場合のメリットは理解できますが、これが三権分立とどのようにつながるのかよく分かりません。