「伝統」のイデオロギー性2

 GraveyardRunnerさんの国歌は価値中立たりえるか?に対するお返事です。

 さて、この国歌は、フランス革命賛歌です。この国歌を法律で制定し続けているフランス共和国は、今も革命の嵐が吹き荒れているでしょうか。

 いいえ。見てきたとおり、民主的な政治が行われ、現在は保守系政党が過半数という状況です。

 しかし、その極端な革命イデオロギーメッセージを含むにもかかわらず国歌として行事で演奏され続けている現実があり、それはフランスの象徴として自国・他国に機能しています。

 この一例をとってみても、国歌は「国民を統べる象徴」として機能する一方、その内容のイデオロギー性を問われているわけではありません。


 まず、フランス革命当時も現在もフランスが自由・平等・博愛を基本理念として掲げている点は変わりありません。同じ理念を持つ政体の創業期の混乱と現在の安定を異質の理念を持っているように扱うのは不適当だと思います。これに対し、大日本国憲法日本国憲法ではその根本理念が異なります。このように国家の理念が根本から変わった場合、国歌が変更されるのは何もおかしくありません(一例としてドイツではメロディーは変わっていませんが、ナチスドイツが1番のみを国歌としているのに対して、現在のドイツは3番のみを国歌にしています)。
 次に、象徴として現実に機能していることとその象徴がイデオロギー性を持つことは矛盾するものではありません。多数者がそのイデオロギー性を意識しないことはイデオロギー性が無くなることを意味しないのです。


 今現在の日本が天皇を主体とする国家を形作っているのなら、君が代天皇のための歌ですが、現実はそうではありません。ですから、君が代を国歌と認めないという「考え」がそのまま国家に対する反逆になることはありえないのではないでしょうか。ですから青龍さんのお考えを誰も罰することはないし、考えを異にする自分とも共存可能なのではないでしょうか。

 問題は(過去にたくさん議論されているように)君が代を国家の象徴として儀礼的に歌うのが「ふさわしい」とされる公立学校でその斉唱に反対する行為です(これはあくまでも象徴としての国歌を歌うべき場ということです)。このイデオロギー的行為は、必要とされる儀礼の中で、あえて反対することで「わざわざ価値中立性を歪めている」行為であると思えるのです。つまり、もともと「国家として国民として」の象徴としての意味しかなかったものにイデオロギーを持ち込んだのは、どちらなのか、という批判です。(日本共産党でさえ、国旗・国歌を消極的にではありますが認めていることや国旗国歌を規定する法律が存在するのはとりあえずおいておきますが。)


 この論理は、戦前の大日本帝国神道を宗教ではなく国民が守るべき礼儀とした「神道非宗教論」と変わりません。内心だけの自由が認められても、内心と異なる行為を強制することを認めるのであれば、内心の自由の保障は画餅に帰すだけです。
 また、現在の日本が国民主権だから「天皇」も「君が代」も価値中立的だというのは、論理としては成り立ちません。今の日本国が国民主権の国家であるなら、なぜ象徴として「天皇」を選択するのか。そこには「伝統」という価値判断が存在しているのではないですか?保守主義や伝統主義を掲げる人々に共通しているのは、「伝統」というものを選択すること自体も一つの価値判断であり、イデオロギー性を持っているという当たり前の認識が欠けていることです。それゆえ、イデオロギーを持っているのは「伝統」という自分たちの選択に反対する人たちだけだという一方的な論理になるのではないかと思うのです。
 人間の歴史を見れば、変化のない社会が存在しない以上、その時代ごとで、過去の「伝統」と呼ばれるものの一部を変更し・排除してきたのです。そしてその変更排除は必ずしも全員の合意の下で漸進的に行われてきた訳ではなく、その時代ごとに多数派によって選択されてきたものです。その意味でフランスにおいても王政と教会の権力というアンシャンレジームの下での「伝統」を否定した、自由・平等・博愛の「伝統」というものも存在するのです。


 象徴としての天皇は、封建の権力を現在は持ちえていません。しかし、左翼系といわれるマスコミでさえ、たとえば靖国問題においては天皇の発言というものを政治的に利用しました。天皇はそのような権限を行使出来得る立場ではありえないにもかかわらず、です。

 これらは、すべて「イデオロギーを持つ側」が「象徴を利用する」行為です。そしてその利用によって損なわれるのは「法による統治」という理念そのものなのではないでしょうか。


 私は、靖国問題についても天皇の発言を政治的に利用したことはありませんし、天皇は国政に関与すべきでないので利用は不適当だと考えています。ただ、日頃天皇を特別視する人たちに対してにもかかわらず都合の悪い発言だけを無視するのは矛盾しているのではないかと皮肉ったことはありますが。
 しかし、天皇の発言を政治的に利用することと、君が代を歌わないことを同列に扱うのは論理としては乱暴すぎます。

 G.R.さんは「国旗・国歌」に限定されていますが、どの部分をたどっても保守の無自覚という問題につながってしまいます。



(余談) 私はイデオロギーという言葉を使っていますが、これは価値観や考えと置き換えても問題はありません。例えば日本国憲法19条は「思想及び良心の自由」を保障していますが、ここでいう「思想」は英訳では「thought」となっています。つまりここで保障されているのは自由主義や民主主義といった大層なものだけでなく、人々が普通に持っている物事の見方や価値観も含んでいるということです。その意味で誰も思想と良心を持っているし、もし持っていないという人がいるのであれば、それは「私は何も考えとらんアホですわ」といっているのと変わらないのです。