「伝統」のイデオロギー性

 偏見と理性と感性(straymind underground)でのコメント欄の続きです。

 確かに皇国主義の旗頭として使われていた時代がありましたし、それは(国民を軍事に走らせたという意味で)間違っていると思います。しかし、だからといって天皇・日の丸・君が代を切り捨てるのは疑問です。

 私が天皇君が代に反対する主要な理由が、特定の血統の人間をその血統ゆえに特別扱いすることが「平等」の理念に反するからであることは前述したとおりです。
 他の人が天皇を敬慕することは自由ですし、それを批判するつもりは全くありません。しかし、同様に、他の人も私が天皇を敬慕しないことに干渉すべきではないのです。

 今現在この国で暮らしている国民のうち「相当数の人々」の意見を反映しつつ、違いを吸収し、また、異なる考えを保護するという制度の下でなら、現行の「国旗・国歌」をみとめるのが自然の流れです。

 「国旗・国歌」について、異なる考えは保護されているでしょうか?君が代を歌わなかったから処分されるような現状では到底保護されていないと私は思います。G.R.さんはどの様な状態を以て「異なる考えを保護するという制度の下」にあると考えられているのでしょうか。

 もともと歴史を有するこの国の「国民」が過去の遺制伝統を継承しつつ、誤りは誤りとして「改善する」という方向で考えるのが保守的思想であるとするなら、私はそれを支持しているものです。そして、国民一人ひとりの生活基盤となる慣習の継承や国家・天皇に対する崇敬の念の継承は遺制継承の具体的なものですが、それを象徴するのに今の国旗・国歌であってもなんら不都合はないと思えます。

 G.R.さんは愛着とは不合理なものであると規定されています。しかし、同様に愛着を持たないことも不合理であり、愛着を持つか持たないかの間に優劣をつけることはできません。それ故、愛着というものを他者に押しつけるべきではないというのが私の考えです。G.R.さんと異なり私は天皇に対する崇敬の念を持っていません。また、「国」に対する崇敬の念も日本国憲法が国民の権利を守ろうという崇高な理念を歌い上げているからであって、この理由はG.R.さんが「国」に対して崇敬の念を持つ理由とはだいぶ異なると思います。しかし、このような価値観の違いにもかかわらず、私もG.R.さんもお互いを同胞として同じ国家を運営していこうということに何ら支障はないのです。
 このような合意に達することができるのであれば、「愛国心」とは天皇・国旗・国歌を経由しなくても発現しうるものだというのが私の考えです。
 ここで、G.R.さんに確認しておきたいのですが、このような私の「愛国心」、すなわち、天皇君が代に崇敬の念を抱かないが、日本の歴史と文化に愛着を持ち、同胞とともにこの国家を運営していこうという考えはG.R.さんからは「気ちがい」の「愛国心」となってしまうのでしょうか?

 仰るように「愛国心のありよう」は人それぞれです。それも認めます。しかし、それが「私の愛国心はこれである」というふうに個人が思考し作り出すものまですべて受け入れるなら、「気ちがい(チェスタトンの表現)」の「愛国心」も受け入れられるでしょうか。私が言う「ある方向」は、過去を継承し、国を維持し、その上で未来を確保するということを前提にしていますから、過去を否定し、国を維持しようとせず、そのうえであるべき未来を否定する「愛国心」があるなら、断固反対する、というものです。

 確かに、個々人が愛国心と考えるもの全てが他の人からも「愛国心」と捉えることができない、ということは事実でしょう。しかし、それはG.R.さんの許容する「愛国心」の基準が妥当であることではありません。
 G.R.さんの①過去を継承し、②国を維持し、③その上で未来を確保するということを前提という基準はいくつもの意味で恣意的なものだと思います。
 まず、①過去の継承という点では、「伝統」というものがその時々の多数派によって過去の一部を切り捨てて形成されてきた、という視点が欠けています。保守であれ革新であれ過去を全否定するものは凡そ存在しません。G.R.さんから過去を否定しているように見える価値観も「伝統」と評価される価値観がそれまで過去の一部を切り捨ててきたことと同じことをしているにすぎません。同じことをしている「伝統」と現在の価値観の価値観について後者だけを「過去を否定」するものだと評価するのは基準として恣意的ではないでしょうか。
 次に、②国の維持についても、何を以て「国」と考えるかで結論はかなり変わってきます。特に、①過去の継承を「国」の内容として読み込むとき、それはG.R.さんが好ましいと思う「過去」の肯定を愛国心の条件とすることと変わりなくなってしまうでしょう。これは③未来の確保についても同様です。

 「愛着を持てるような国家」というのは、「国」が作り上げるものではなく、祖先が暮らし、自分たちが暮らし、いずれ次の世代が暮らせるであろう「祖国」を愛する私たちが具現化し、維持していくものなのではないでしょうか。

 これについては同意します。だからこそ私も「そして自分たちがそのような社会と作り上げていく過程こそが「愛国心」の本質だというのが私の考えです。」と書いているのです。

 ある一部教師の振る舞いから裁判となった事件などを見るにつけ、あの教師たちはおろかだと思います。ああいう行為は国民感情の保守化を助長するというよりも、偏狭な皇国主義者を喜ばせるだけです。ああいう行為はそれを生み出す思想を排除し右傾化させる絶好の口実を与えているのです。

 それを気づかずに子供を楯に取り自己のイデオロギーのみを振りかざすのは「自分の頭の中で世界を形作っている」幼児の傲慢さです。

 子供を盾に自己のイデオロギーを振りかざしているというのは、自民党や東京都教育委員会にこそ当てはまることではないですか?
 君が代の斉唱を拒否した教師は、生徒に歌うなと指導したわけでもありません。単に卒業式の場で自らの信条と異なる行為を拒否しただけです。この行為のどの部分が「生徒を盾に取り」と評価できるのでしょうか。逆に東京都教育委員会はこの教師に対して「卒業式」という場を利用して君が代の斉唱を強制しています。更に生徒に対しても、生徒たちが君が代を斉唱しないことを教師の指導義務違反と捉えることによって教師の処分を盾に生徒に君が代を歌わせようとしています。これらの事実を見る限り教師が斉唱しないことを「生徒を盾に取っている」と評価しながら、教育委員会の行為について
問題にしないことはかなり恣意的な評価だと思います。
 また、イデオロギーの押しつけという点については、君が代を斉唱させようとする側もまた「イデオロギー」に基づいているという重要な点が忘れられています。G.R.さんに限らず「伝統」を強調される方々は「伝統」も一つのイデオロギーだという当たり前の認識が抜け落ちていることが多いです。特に、「愛国心」というものが愛着という不合理なものであるならば、不合理な価値観を少数者に押しつける点で少数者の思想良心の自由を侵害するものであり、現憲法下では許されない行為といえるでしょう。

 私が考えるに、教育基本法改正の良いところは教育体制維持のための義務を地方や家庭にまで要求している点であると思います。これは逆に言うと地方や家庭に「教育にかかわる権限」を委譲していくと考えられるものです。

 これは認識が甘いように思います。現に伊吹文部大臣は地方自治体の首長が決めた教育内容が政府の方針と異なる場合、「不当な支配」に当たると答弁しています。
 また、家庭に教育のための義務を負わせることは家庭教育の内容に国が立ち入らないことを意味しません。改正教育基本法を根拠にあるべき家庭教育に国が関与していく危険は十分あります。

 ですから、国家理念を支えるべく国旗・国歌を制定しできうる限り価値中立なものにさせる努力をし、教育基本法の理念をできる限り国民の手にゆだねるべきです。そしてそのゆだねられる国民は過去の歴史を尊重し、それを維持し、改善していくことでより良い未来を次世代に渡すという意味で、保守的であるほうが良いと思います。

 国旗・国歌を価値中立なものにするとはどの様な施策を指すのでしょうか。君が代天皇の世が続くことを歌い上げるものであり価値中立的なものではない以上、国歌を別の歌に変更するのでもなければ価値中立なものにすることはできません。君が代を国歌としたままで価値中立なものにするのはそもそも不可能だと私は思います。この施策が、君が代を価値中立的なものと見なすということであればまさに「保守」にありがちな自らのイデオロギー性の無自覚といえるのではないでしょうか。

 長々と書きましたが、私がG.R.さんの意見に賛同できない理由は、G.R.さんが自らのイデオロギー性を自覚されていない点にあります。
 前述したようにG.R.さんの言う「保守」もG.R.さんが否定される「気違いの愛国心」も「過去の一部」を変更せず「過去の一部」を変更するという点は何ら変わりません。しかし、G.R.さんから見ると一方は過去の「維持・改善」であるのに他方は過去の「否定」というように対照的な評価になってしまっています。このような恣意性が根底にあるからこそ、君が代の斉唱を法律によって強制しようとする側が正常であり、君が代を歌わない人間の方が「不寛容」という評価になってしまうのだと思いますし、その下で許容される「愛国心」の多様性も孟子の「性善説」的な論理構造になってしまうのです。