絶望と出口のない怒り

元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) - dj19の日記 経由

 【維新政党・新風】弁士、韓国人に襲われる
http://www.youtube.com/watch?v=twIFPj2RpbM

 この動画を見て心底気分が悪くなった。
 韓国人の青年に対して、「大嫌いだから、大っ嫌いなんだよ、この日本から叩き出してやるよ、え、ゴミが、朝鮮人。」とヘイトスピーチを浴びせかける維新政党・新風の弁士。
 腹に据えかねた韓国人の青年がつかみかかると、弁士は暴力をふるわれたとアピールしながらさらに罵倒を続ける。


 だが、問題は、今の日本の法体系ではこの弁士の言葉の暴力からこの韓国人の青年やその背後にいる韓国人・朝鮮人を守ることが困難であるという事実だ。


 現時点では、特定の個人ではなく民族等の集団に対するヘイトスピーチを処罰する法律は日本にはない。処罰されるべきヘイトスピーチと保護されるべき言論とを明確に区別することが困難だからだ。我々は、名誉毀損罪の前身である讒謗律が、政治家に対する批判を封じ込める道具として使われた過去を知っている。だからこそ、ヘイトスピーチだから処罰しろと単純に叫ぶことができない。
 ヘイトスピーチをするような街宣活動を許可するなともいえない。表現内容に行政が介入して言論を抑圧することは、言論の自由に計り知れないダメージを与えると知っているからだ。
 言論には言論で対抗すべきかもしれない。しかし、彼らがやっていることは議論の中で意見の正しさを競うことではない。ひたすら特定の集団に対する差別意識を発露させるだけなのだ。彼らに対していくら、主張が間違っている、問題があると反論したところで、彼らは同じヘイトスピーチを繰り返すだけだろう。我々がHPやBlogでいくら非難したところで、彼らをそれを無視するという選択肢を有している。
 では、彼らと同じように彼らに対してスピーカーでがなり立てればいいのだろうか。いやそれも難しい。彼らを追いかけてスピーカで反論する。一歩間違えばストーカーだ。言論の内容ではなく、音量や追跡によるプレッシャーによって相手を黙らせようとすることは言論の内容で競おうとする言論活動の建前とは相容れないからだ。

 このように考えると、あの弁士らのヘイトスピーカから、在日韓国人朝鮮人を守ることが実に困難である。さらに絶望的なのは、あの弁士たちを守り、差別的言論を放任させているのが、他ならぬ我々の良識と人権意識であるということだ。そう、弱き者の権利を護るための人権意識とそれを支える良識が、あの良識や人権意識とは対極にいるあの弁士たちを放任している。
 しかもそれがわかっても、あの弁士たちの権利を守るなと、良識をなげうってでもヘイトスピーチを止めさせろと、私は叫ぶことができない。その先にあるかもしれない、言論弾圧が頭をよぎるからだ。弁士たちに対する怒りにはまさに出口がない、これほどの絶望があるだろうか?

 それでも、私たちは、この問題から逃げることはできない。ヘイトスピーチによる被害を防止しつつ、しかも言論弾圧に陥らないような針のように狭い道を探さなければならない。そんな道があると信じることが、この絶望と出口のない怒りから私を救ってくれる。