捕鯨の話

 Apemanさんの掲示板で、捕鯨問題について議論を続けていたのですが、投稿
サイズがどんどん大きくなっていき、掲示板への投稿という形では不適当だと
思い、こちらにエントリーを立てました。

 私の基本的なスタンスは、食糧資源の効率的活用という観点から、捕鯨を認
めるべきであるというものです。そして、調査によって持続的な利用が可能な
捕殺頭数を算定して、その枠内で捕鯨を認めるべきであると考えています。

 これに対して、同掲示板では、捕鯨反対派に立った場合の主張としていくつ
かの論点が提示されています(同掲示板で議論をした方には反捕鯨派という方
はいらっしゃらず、議論も専ら捕鯨推進派の主張が反捕鯨派に対して説得力を
有するかという観点からなされています。このような議論の枠組みには少々異
論があるのですが、その点については後ほど)。

 まず一つ目は、?鯨に限らず野生動物については「殺さずにすむなら殺さな
いようにしよう」という自然保護・動物愛護の潮流がある(現に象やライオン
などは頭数に関わりなく保護されている)、というものです。

 しかし、私はこの主張には賛同できません。むしろこの主張に対しては嫌悪
感を感じます。
 まず、この主張は、野生動物を、頭数にかかわらず「殺さずにすむのであれ
ば殺さない」ものと、持続的な利用が可能な範囲内での利用を肯定するものと
に分けています。この区別の基準は論者によって様々ですが(高等哺乳類に限
定する人もいれば、哺乳類に限定する人も、鳥類まで限定する人もいます)、
その区別の根拠は必ずしも明らかではありません。どの論者も高等哺乳類はほ
ぼ「殺さずにすむなら殺さない」側に含まれるのに対し、魚類が含まれること
はないことからすると、知能の程度又は人間との近さが基準の根拠となってい
るようですが、このような根拠で動物を区別することは動物間の差別につなが
ります。
 また、より深刻なのは、この主張が食用として捕殺される鯨についても「殺
さずにすむなら殺さないようにしよう」という主張を不用意に持ち出している
ことです。この主張の背後には鯨ではなく、牛や豚を食べればいいという考え
方がありますが、このような考えを動物愛護を主張する者が平然と持ち出すこ
とには強い憤りを感じます。
 すなわち、彼らの動物愛護精神には、鯨の代わりに殺して食べられる牛や豚
はかわいそうではないのかという視点が全くと言っていいほど欠落しているの
です。冗談じゃぁありません!殺されてかわいそうな点では野生動物であろう
と食用に飼育された牛や豚だろうと何も変わりません。人間が生きていくため
にその残酷さを心にとめながら生きていかなくてはならない点では鯨も牛も豚
も何の違いもないのです。
 それを、牛や豚を殺すことの残酷さも意識せずに、鯨を殺して食べるのはか
わいそうだと主張する傲慢さはどうなのでしょう。



 失礼、少々言葉が過激になってしまいました。
 しかし、動物愛護の観点から鯨を殺すなと主張する人に対しては「殺さずに
すむなら」という前提が何を意味しているのかということをもう一度真剣に考
えてほしいと思います。

 私も、生態系の保護の観点から、絶滅の危険がある動物の捕獲を控えようと
いう主張であれば、理解できます。一旦絶滅に追いやってしまったら取り返し
のつかない以上、どんな生物であれ保護すべきだと思います。しかし、この場
合あくまで生態系の保護が目的である以上、持続的な利用が可能な捕殺であれ
ば生態系の保護の観点からは否定する理由にはなりません。持続可能な利用が
可能な捕殺頭数の算定に当たって、繁殖サイクルや密漁の危険を考慮すること
は否定しませんが、それを考慮しても問題がない頭数であれば、鯨を食べるた
めに殺すことは自然保護の理念と何ら矛盾しません。



 反捕鯨派は、南氷洋が公海であることを理由に、捕鯨の再開には国際社会の
合意が必要であると主張します。しかし、そもそも現在の捕鯨禁止措置は、鯨
の乱獲による資源量の急激な減少に対処するためのものであって、捕鯨が禁止
された時から現在に至るまで、生態数にかかわらず鯨を捕るべきではないとい
うようなコンセンサスは一度も得られていません。むしろ、捕鯨の一時禁止措
置と同時に資源量の調査についてのコンセンサスが得られていることからすれ
ば、資源量の調査の結果資源量が十分に回復した時点での捕鯨の再開を念頭に
置いていたと考えるべきでしょう。

 残りは後で追記します。