「核武装は議論としてあって良い」≠「核武装すべき」か?

[http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2579232/detail:title=[北朝鮮核実験]「日本の核保有も選択肢」中川政調会長]
 この件について、中川政調会長の発言を擁護する方々に良く見られる論法です。
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核兵器こそ専守防衛の兵器(日本の場合)(Dr.マッコイの非論理的な世界)

まず、この記事の見出しにあるように、中川政調会長が「日本の核保有も選択肢」と言ったというのはウソです。よく読むと「議論はあってよい」と言っているだけです。このような印象操作はよくあることです。政調会長が「核保有も選択肢」と発言することと、「核保有について議論することを容認した」のとでは大違いです。実際は後者ですから。

 この場合、「その選択肢として核(兵器の保有)ということも議論としてある。議論は大いにしないと(いけない)」と発言することは「核保有も選択肢」と発言することと完全にはイコールではありません。しかし、「(核保有について)議論は大いにしないと(いけない)」と発言した場合、その発言者が核保有を志向していると判断されるのはごく自然なことであり、印象操作とは言い難いでしょう。
 なぜなら、日本政府は既に非核三原則を基本的な政策として採用しているからです。非核三原則を採用している以上、核保有を望まない論者はわざわざ議論の必要性を訴えたりはしません。議論がなされない限り、自らの望む非核三原則は保持されるのですから。これに対して、核保有を望む論者は、自らの主張を実現させる為には非核三原則を廃止または変更しなくてはならず、そのためにもまず核保有について議論をする必要性があるのです。
 つまり、非核三原則の下で、ある人が核保有についての議論の必要性を訴えている場合、その人が書く保有を志向しているという推論は、自然なものなのです。