所属組織に圧力をかけるやり方は最悪である

 瀬尾准教授の発言について青山学院大学の学長が学長名義で謝罪した件で、山口弁護士が以下のように発言されている。

おそらく、青山学院に電凸でもして、「上司を呼べ!」みたいな対応を求めた人がいたのではないかと思いますが、大学当局は毅然とした対応をすれば良かったのだと思います。瀬尾佳美准教授の意見の是非はともかく、プライベートなブログの内容について学長が謝罪する理由も筋合いもありません。

ブログを見た人が批判をするのは当然だと思いますし、「人間の廃物利用」呼ばわれされた人がそれなりの対応を講じることはともかく、第三者が大学に圧力をかけるのはどうかと思いますし、大学がそれに屈するのもどうかと思います。学長として謝罪することは、瀬尾佳美准教授が論旨を撤回しない場合、何らかの処分の対象となりうることを前提としているのではないでしょうか?自由な議論を重視すべき大学のとるべき対応とは思えません。

 この発言に対して、コメント欄で批判が集中している。
 確かに、瀬尾准教授の発言の中には問題があるものが多い(ただ、問題となっている「対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので、傷害致死の可能性は捨てきれないと思っている)。」という部分に対する非難については、本人の表現の不適切さに大きな原因があることは確かであるがやはり誤読に基づくものであると思う*1 )。Blogの中で発言している以上、発言に問題があれば本人に対する非難が向けられるのは当然であると思う。

 しかし、本人に抗議するのではなく、所属組織に抗議をすることによって発言を撤回・謝罪させようとすることには賛成できない。
 このやり方で問題なのは、所属機関への抗議の集中その他の圧力によって、所属組織が構成員である本人に圧力をかける危険性はその言論のないように関係なく生じてしまうということである。
 所属機関が正当な言論であると判断すれば抗議にもかかわらず本人の言論の自由を守ってくれるというのは残念ながら現在の日本では幻想に過ぎない。大学における言論活動の自由の重要性について熟知しているはずの青山学院大学の学長でさえ、圧力に屈してしまったのを見れば、まして民間企業に同様の抗議が集中した場合、圧力に対応する煩わしさよりも、社員の個人的な言論に圧力をかける方を選択するのは想像に難くない。
 そもそも、何が正当な言論かということでさえ人によって対立があることを考えれば、その対立を公の議論によってでなく、所属機関への圧力によって解決しようとすることがいかに危険であるか少し想像力を働かせればわかりそうなものである。
 このような圧力を正当化する人々は、自分が正当化したこのやり口が回り回って自分に返ってくる危険性を想像できないのだろうか。もし、自分は正しいことを主張するから同じような目に遭うことはないと考えているのであればおめでたすぎるといえよう。
 それとも、匿名での発言を続ければ所属組織から圧力を受けることはないと高をくくっているのだろうか。その意味で山口弁護士のBlogのコメント欄で山口弁護士を非難していた人の中に実名どころか、自分のブログのURLを記載している人もいなかったことは実に印象的である。

 

*1:赤ん坊を0.5人と評価しているのは、あくまで赤ん坊について傷害致死であると思っているからであって、そのような前提なしに赤ん坊の命は常に0.5と考えているかは疑問である。この意味で「1.5人だ」という部分と傷害致死の可能性についての記述を分けて引用している産経新聞の引用には問題があると思う。

イラク派遣訴訟控訴審判決

 名古屋高裁が、空自の空輸活動の中に特措法と憲法9条に違反する活動を含んでいる、と判断したことについて、傍論で違憲判断をしたことを非難する論調が目につく。
 訴え却下判決であるから、勝訴した国は上告することができず高裁の違憲判断を争うことができないことに問題がないわけではなく、このような判決が続出することに懸念を抱くことは理解できる。その意味で裁判所は、結論と関係ない傍論での憲法判断には慎重であるべきだろう。
 しかし、このことは傍論での憲法判断が一切許されないということを意味しない。裁判所は具体的な事件に法律を適用して紛争の解決を図るという伝統的な司法の役割に加えて、具体的な事件を通じて憲法秩序を維持するという役割を持っている。付随的審査制のもとでは具体的な事件を離れて、抽象的な憲法適合性の判断ができないが、事件の結論に関係がなくても憲法判断をすることが妥当とする場合はあり得る。
 では、今回の判決はそのような場合にあたるといえるだろうか。本件で問題になっているのは、憲法9条という日本国憲法の基本原則に関わる問題であるが、特措法制定時の小泉首相の発言を思い出してみれば解るように、およそ法的には成り立たないような強引な理屈を並べてまともな議論を拒否して、数の力で法案を成立させたのである。本来なら、このような非論理的な暴論は国会での議論を通じて排除されなければならないが非論理的な暴論を主張する側が議会の多数派であり、非論理的な主張をすることに恥ずかしさを覚えない場合には国会でのチェックは実効性を欠く。
 このように極めて違憲性の高い空自の派遣が、数の力で押し切られて是正もされない場合に、憲法の番人である裁判所が派遣の違憲性を指摘することに問題があるとはいえない。仮に不都合性があるとしても、それはこの違憲状態を放置した場合の不都合性とどちらが大きいかは明らかだろう。

 今回の判決を批判する人たちは、明白な違憲・違法状態が続くことの問題性をどのように考えているのだろうか。
 私には、名古屋高裁の正論が気にくわないが面と向かって憲法判断を非難するほどの破廉恥さを有していない人々が、傍論での憲法判断という点を取り上げて批判しているようにしか思えないのだ。

 
 

捕鯨の話

 Apemanさんの掲示板で、捕鯨問題について議論を続けていたのですが、投稿
サイズがどんどん大きくなっていき、掲示板への投稿という形では不適当だと
思い、こちらにエントリーを立てました。

 私の基本的なスタンスは、食糧資源の効率的活用という観点から、捕鯨を認
めるべきであるというものです。そして、調査によって持続的な利用が可能な
捕殺頭数を算定して、その枠内で捕鯨を認めるべきであると考えています。

 これに対して、同掲示板では、捕鯨反対派に立った場合の主張としていくつ
かの論点が提示されています(同掲示板で議論をした方には反捕鯨派という方
はいらっしゃらず、議論も専ら捕鯨推進派の主張が反捕鯨派に対して説得力を
有するかという観点からなされています。このような議論の枠組みには少々異
論があるのですが、その点については後ほど)。

 まず一つ目は、?鯨に限らず野生動物については「殺さずにすむなら殺さな
いようにしよう」という自然保護・動物愛護の潮流がある(現に象やライオン
などは頭数に関わりなく保護されている)、というものです。

 しかし、私はこの主張には賛同できません。むしろこの主張に対しては嫌悪
感を感じます。
 まず、この主張は、野生動物を、頭数にかかわらず「殺さずにすむのであれ
ば殺さない」ものと、持続的な利用が可能な範囲内での利用を肯定するものと
に分けています。この区別の基準は論者によって様々ですが(高等哺乳類に限
定する人もいれば、哺乳類に限定する人も、鳥類まで限定する人もいます)、
その区別の根拠は必ずしも明らかではありません。どの論者も高等哺乳類はほ
ぼ「殺さずにすむなら殺さない」側に含まれるのに対し、魚類が含まれること
はないことからすると、知能の程度又は人間との近さが基準の根拠となってい
るようですが、このような根拠で動物を区別することは動物間の差別につなが
ります。
 また、より深刻なのは、この主張が食用として捕殺される鯨についても「殺
さずにすむなら殺さないようにしよう」という主張を不用意に持ち出している
ことです。この主張の背後には鯨ではなく、牛や豚を食べればいいという考え
方がありますが、このような考えを動物愛護を主張する者が平然と持ち出すこ
とには強い憤りを感じます。
 すなわち、彼らの動物愛護精神には、鯨の代わりに殺して食べられる牛や豚
はかわいそうではないのかという視点が全くと言っていいほど欠落しているの
です。冗談じゃぁありません!殺されてかわいそうな点では野生動物であろう
と食用に飼育された牛や豚だろうと何も変わりません。人間が生きていくため
にその残酷さを心にとめながら生きていかなくてはならない点では鯨も牛も豚
も何の違いもないのです。
 それを、牛や豚を殺すことの残酷さも意識せずに、鯨を殺して食べるのはか
わいそうだと主張する傲慢さはどうなのでしょう。



 失礼、少々言葉が過激になってしまいました。
 しかし、動物愛護の観点から鯨を殺すなと主張する人に対しては「殺さずに
すむなら」という前提が何を意味しているのかということをもう一度真剣に考
えてほしいと思います。

 私も、生態系の保護の観点から、絶滅の危険がある動物の捕獲を控えようと
いう主張であれば、理解できます。一旦絶滅に追いやってしまったら取り返し
のつかない以上、どんな生物であれ保護すべきだと思います。しかし、この場
合あくまで生態系の保護が目的である以上、持続的な利用が可能な捕殺であれ
ば生態系の保護の観点からは否定する理由にはなりません。持続可能な利用が
可能な捕殺頭数の算定に当たって、繁殖サイクルや密漁の危険を考慮すること
は否定しませんが、それを考慮しても問題がない頭数であれば、鯨を食べるた
めに殺すことは自然保護の理念と何ら矛盾しません。



 反捕鯨派は、南氷洋が公海であることを理由に、捕鯨の再開には国際社会の
合意が必要であると主張します。しかし、そもそも現在の捕鯨禁止措置は、鯨
の乱獲による資源量の急激な減少に対処するためのものであって、捕鯨が禁止
された時から現在に至るまで、生態数にかかわらず鯨を捕るべきではないとい
うようなコンセンサスは一度も得られていません。むしろ、捕鯨の一時禁止措
置と同時に資源量の調査についてのコンセンサスが得られていることからすれ
ば、資源量の調査の結果資源量が十分に回復した時点での捕鯨の再開を念頭に
置いていたと考えるべきでしょう。

 残りは後で追記します。

国籍と国家2

国籍と価値観の続きです。
 素朴な疑問さんの主張の中では繰り返し「共同体」というものが出てくるのですが、その内容は極めて曖昧なもののように思います。
 これまでのやりとりでも明らかなように、同じ日本国籍を持ちながら、私と素朴な疑問さんの政治的立場は大きく異なりますし、何を以て「共同体」の利益と考えるかも、それ以前にいかなる範囲を「共同体」として認識するかさえも異なっています。
 このことからいえるのは、ある国の国籍を有するから、特定の政治的立場に立つとはいえないし、いかなる「共同体」にいかなる意味での帰属意識を持つかも規定されないということです。このことは価値相対主義を取り、思想信条の自由を保障している日本国においては当然のことです。
 国籍を取得すればその人の価値観も変わり、その人の主観において所属する共同体も変わってしまう、という素朴な疑問さんの主張は、全て国籍とはこうあるべしという素朴な疑問さんの価値観が前提となっていますがそのような前提には何の根拠もありません。
 そもそも、素朴な疑問さんが主張されるように、国籍によってどこの共同体のために行動するかが一義的に決まってしまうのであれば、在日韓国人日本国籍を取得するということ自体が考えれないのではないように思います。韓国籍を有する人が、必ず韓国のために行動する意思を持つという前提が正しいのであれば、日本国籍を取得するということは、韓国ではなく日本のことを考えるようになるということになり、当初の前提と矛盾します。
 国籍変更という制度が、決して例外的なものではなく一般的におかれているということは、ある国籍を有しているから国籍国の「共同体」のために行動するという前提自体に問題があることを示しているのではないでしょうか。
 
 素朴な疑問さんの主張は万事、この誤った主張を前提にされていますが、前提に問題がある限り、そこから出される結論もおかしなものになってしまうでしょう。

 素朴な疑問さんは、戦争になった場合に日本のために戦うかは場合によるという私の考え方を「普通の日本人」の考え方とは見なさないようです。そのこと自体は自由なのですが、それの傍証として9.11やフォークランド戦争に加えてムッソリーニの当初の支持率を無邪気に出してくるのには危うさを感じます。
 ある国籍を有し、その国の共同体のために行動することを当然とする価値観がいかなる結果をもたらしたか、これはムッソリーニ政権の末路を見れば一目瞭然なのですが、この結末をみた後で当初のムッソリーニ政権の支持率の高さを持ち出して、国家のために戦うことの当然さを主張することに疑問を抱かないのは歴史に学んでいないといわざるを得ません。9.11についても、国家のためというお題目のために、国民がイラク戦争に雪崩を打って賛成した結果がどうなったか、それを知っていれば無邪気に国家のために戦うことに賛成することもまして国家のために戦うこともできないことは明らかです。

 素朴な疑問さんは、私の名古屋「ナショナリズム」と日本についての「ナショナリズム」とはレベルが異なると主張されますが、スポーツでどこを応援するかという点ではどちらも変わりないし、それが政治的な立場と関係がない点でも変わりません。
 スポーツでどこを応援するかという趣味に属する問題と、政治的立場を簡単に直結させてしまう思考方法には問題があるように思います。
 両者を結びつけるのは、素朴な疑問さんの有する「共同体」への過剰な思い入れでしかなく、それが根拠のない曖昧なものにすぎないことは既に示しました。



>しまうまさん

 本来なら、彼らも「素朴な疑問」氏が考えるような共同体の利益に沿う場合もあるだろうし沿わない場合もあると言わなければならないはずなんですがね。日本の国籍を持っていると何故か魔法のように素朴な疑問氏の考え通りに振舞ってくれて、そうでなければ自分の意に反して振舞うはずだというわけなんでしょうかw

 この点は私も「幸いなことに、日本国では国籍取得の際に日本国への責任を持つように洗脳するようなことはしないのです。」と皮肉っておいたのですが、素朴な疑問さんには通じなかったようです。多分、彼の中ではそのような考えはドグマとなっているのではないでしょうか。

 このような単純でナイーブな議論こそをseiryu95さんは否定しておられたと思うんですが。なぜ、国籍を同じくするだけであなたの考える国益と私やseiryu95さんが考える国益が一致するとナイーブにも確信できるのでしょうか?

 素朴な疑問さんの主張を聞いていると、「共同体」を構成する個々の構成員のありようとは別個に、特定の内容を持った「共同体の利益」というものが予め存在しているように考えているように思うのです。
 しかし、何がその「共同体の利益」と考えるかは個々の構成員を離れて存在するのではなく、むしろ構成員間の議論を通じて形成されていくものだというのが私の考えです。このような考え方からは、「共同体の利益」について、議論を通じて形成されたものと異なる考え方をもした者が存在するのは当然の前提となりますし、異なっているがゆえに共同体の一員でないという主張自体がナンセンスなものになるのです。

国籍と価値観

「在日特権」に関する素朴な疑問なのだがのコメント欄の続きです。

素朴な疑問さんwrote

seiryu95 さんあなたは一言で言えば極めてナイーブな方ですね(笑)。ひとつお聞きしたいのですが、日本の方なのにもかかわらずどうして在日コリアンの考えがわかるのでしょう(笑)?あなた自身の考えがコリアンの考えとは限りませんよ。

 それは、あなたの考えが同じ日本人の考えとは限らないのと同じことです。国籍が同じだろうと違おうと、他人の価値観を単純に推し量れないという点では変わりないのです。その質問を発した時点で自らの主張に疑問を感じてほしいです。

 実際に竹島日本海呼称問題で民潭が日本国内で韓国の主張を繰り広げていることをご存じない?在日朝鮮人の中にスパイが大勢いて、何人もの日本人を拉致していった事実をご存知でない?冗談でしょう?民潭は日本と韓国の渡し舟の役割を果たすどころか韓国の日本批判の急先鋒となって祖国に対し愛国心を懸命に示しているような行いを繰り返しています(そのように行動しなければならない彼ら移住者の境遇のせいもありますが)。

 私からみると、竹島の問題についてはどちらかといえば韓国側の方に理があるように見えます。他方、日本海呼称問題では日本の主張に理があると考えています。私が政治にコミットする際の基準はあくまでどちらに理があるかであって、日本国籍を有するから日本側を支持するというような自分の理性を侮辱するような行動をとる気にはなりません。
 日本国籍であってもあなたが考える「日本」の利害と対立する主張をすることはいくらでもあります。私は日本国籍を有していますが、あなたが考える「日本」の利益に反する主張をしています。あなたはそれを理由に非国民として選挙権を与えるなと主張されますか?

 

 上に述べたように選挙権を与えても中国韓国北朝鮮の意向に沿って行動するから問題なんですよw

 あなたが主張するように、北朝鮮のスパイとして活動していた人たちがいることは否定しません。しかし、それは北朝鮮国籍を有しているから必然的にそのような行動をとっているわけではありません。大多数の人たちは、そのような活動とは無関係ではないですか?一部の者の行為を全ての者の価値観を判断する基準にする行為の愚かさを私は指摘しているのです。


 戦争になればあなたは戦わないようですが、まあ普通の日本人なら攻め込まれれば戦いますよw9.11のアメリカ人やフォークランド紛争の時のイギリス人なんか見てもみな一丸となって立ち向かっていたでしょう?家族に危害が及べば戦うでしょう。友人に危害が及べば戦うでしょう。同様に共同体に危害が及べば共同体の人間は戦わなければならないのですよ。あなたは友人達を見捨てるんですか?


 友人の生命に危機が迫っているのであれば、当然助けようとするでしょう。しかし、その方法が、日本のために戦うとは限らないのですよ。第二次世界大戦時のイタリアでは、連合軍との戦争継続中に反乱が起きムッソリーニ政権を打倒しました。911の当時のアメリカでもそれまでのアメリカの行動を非難し、軍事行動を止めようとする人たちは存在しました。国籍を同じくしているから、有事の際に右向け右となるとは限らないのです。私も、そのときの日本の状況によって同様の行動をとることによって友人を救おうとするかもしれません。
 

 話はそれましたが、もし台湾有事が勃発すれば在日華僑は日本のために行動しますか?竹島紛争が起きた場合在日韓国人は日本のために行動しますか?北朝鮮が核ミサイルを発射してきた時在日朝鮮人が日本のために行動しますか?答えは否でしょうwそれは彼らが異なる共同体の住人だからです。

 そこで、「答えは否でしょう」といいきってしまう単純さこそが批判の対象となっているのです。

 もっと具体的にいいましょう。身近な在日韓国人にサッカーの日韓戦で日本と韓国どちらを応援するか尋ねてみてください。99%「韓国」と答えるはずです。韓国籍を持つからには当然の答えですが、つまりそういうことなのです、彼らは日本という共同体に所属せず韓国という共同体に所属している。

 スポーツでどこを応援するかは、その人の好きずきですし、そんなことは参政権の有無を考える上で意味はありません。私は名古屋出身で熱狂的な中日ファンですが、巨人ファンなど名古屋市民ではないという気は毛頭ありません。逆に、私が大阪府民になったとしても阪神ファンになることは絶対ないでしょう。在日韓国朝鮮人がサッカーでどこを応援しようと、彼らが日本社会の構成員であり、利害を共有するものであることに変わりはないのです。

 ある共同体に属しながらほかの共同体の意思決定に参加する―そんな馬鹿な話はありませんし、自分の共同体の利益よりもほかの共同体の利益のために行動するはずもない。「帰化」すれば少なくとも元の共同体には属しません。それぐらいしないと選挙に参加できないのです。納税したぐらいで選挙権が得られるはずもないのです。繰り返しになりますが、在日外国人、特に在日コリアンは「国籍」を軽く考えすぎていると思いますね。
最後に、あなたは定住外国人も含めて守りたいといいますが、その定住外国人が日本という共同体を守る意思を持たないことがこの問題の根本にあるのだと個人的には思っています。

 ここでも、あなたの「共同体」の理解が単純化されていることが窺えます。「共同体」というものは決して単一なものでもないし、排他的なものでもありません。私を例にしていえば、現在三重県に在住し、三重県民という共同体に属していることと、名古屋出身者として名古屋人の共同体に属していることには何ら矛盾はありません。
 また、帰化をすれば、元の共同体には属していないというあなたの主張こそ、ナイーブに過ぎるのではないですか。日本国籍の取得によってその人の価値観が変わるわけでも、その人の主観において所属する共同体が変わるわけでもありません。日本に長期間暮らしていれば、日本社会という共同体の一員になっているし、他方、旧国籍国についてのアイデンティティ日本国籍を取得したからといってなくなるものではありません。それらは矛盾するものではなく、重層的に併存するものです。
  

橋下弁護士を支持する人々

 9日のたかじんのそこまでいって委員会で橋下弁護士に対する懲戒請求について取り扱っているのを見ました。
 あいかわらず、橋下弁護士の擁護に終始した一方的な番組内容でしたが、それにもましてひどいと思ったのが、この放送を見た人のBlogでの反応です。
 曰く、弁護団死刑廃止運動にこの裁判を利用しているとか、1審・2審で事実関係を争わなかったのに差し戻し審でいきなり争うのはおかしいとか、事実関係もろくに確認しないまま弁護団を非難しているBlogが多すぎます。
 事実関係も、刑事訴訟制度もろくに理解しないまま、市民感情や一般の常識を持ち出して弁護団を非難する姿勢にははっきり言って頭が痛くなります。
 確かに、一般市民から見れば、弁護団の主張には納得がいかないものがあるのでしょう。しかし、被告人が主張する以上は、いかに非常識と思える主張であってもそれに従わざるを得ないのが刑事訴訟における弁護士なのです(弁護士が被告人に言わせているという主張もありますが、それを裏付ける根拠は誰も示していません)。弁護団を非難する人々は、弁護団がどの様な弁護活動をすれば納得するのでしょうか。それを示すことなく弁護団を非難する人に対しては「責難は成事にあらず」という言葉を贈りたいと思います。
 また、弁護団死刑廃止運動にこの裁判を利用しているという人に対しては、一体何を根拠にそのような非難をするのかを伺いたいです。弁護団の中に死刑廃止論者がいることは事実です(ただ弁護団死刑存置論者も存在することに留意すべきです)が、死刑廃止論者が弁護しているというだけで死刑廃止運動に裁判を利用していると非難するのは、あまりにも短絡的な主張といわざるを得ません。

 私は、一般市民がこの裁判に関心を持つのはもっともだと思いますが、それと事実確認も問題となっている刑事裁判についての理解もないまま弁護団を非難することの是非は全く別問題です。
 一般市民であろうと専門家であろうと、公的な問題について公に意見を主張する以上、その主張には責任を伴うことに違いはありません。その主張が他者への非難であるならなおさらです。ろくに調べもしないまま感情にまかせて非難するというのが市民感情であり常識であるというのなら、そのような市民感情・常識などにまともに取り合う価値はありません。